振り上げた握りこぶしはグーのまま振り上げておけ相手はパーだ

推理小説にはラストでそれまで構築されていた世界が一瞬で変わってしまうようなものがある。例えば歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(文春文庫)、貫井徳郎『慟哭 』(創元推理文庫)、乾くるみイニシエーション・ラブ 』(文春文庫)など、いくらでも思いつく。古典的なところではアガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』があるが、叙述トリックはたいていそうだ。叙述という作品世界を構築する基盤にしかけられたトリックなので、その上にのっている世界のひっくり返されかたも根底的なものになる。逆にいえば根底的にひっくり返したいから叙述トリックを用いるのであるけれども。
この短歌もおしまいの一語でものの見え方がガラリと変わる。先に取り上げた「本当」が二度出てくる歌では、最初と最後では「本当」の意味が変わっていたが、この歌でも「グー」の意味が相手を殴るための「握りこぶし」からジャンケンの「グー」へと変質する。緊迫した場面がたちどころに脱力したものになる。
変化してゆく様子を少し丁寧に見てみる。まず最初「こぶし」という把握の仕方は、たんに手を握られた形を描写したものにすぎない。人が「握りこぶし」をつくるのは相手を殴るときだけではない。身体に力がはいるときはつい「握りこぶし」をつくる。その意味で「握りこぶし」じたいに暴力的な価値が内在するわけではない。しかしこの歌で「握りこぶし」が相手を殴るためのそれであると思わせているのは「振り上げた」という動作がつけられていることによる。こうなると「握りこぶし」はパンチを放つための形にしか見えない。だが繰り返すが「握りこぶし」自体は価値中立的である。
歌は「握りこぶしはグーのまま」とある。ここで読み手は多少の違和感を感じはじめる。小説でいえば伏線である。どこに違和感があるかというと「握りこぶし」のすぐあとにトートロジーのように「グーのまま」と付け加えているからだ。手の状態としては全く同じなのに、あえて言い換えをしているのである。そこにチラッと作為的なものを感じはするが、この段階ではまだ意図がわからない。わからないままここで「握りこぶし」と「グー」が併存することになる。そして最後に「パー」とあることによって併置されていた「グー」のほうに力点が移り、認識の枠組がジャンケンになる。違和感として存在した伏線がここで回収される。「握りこぶし」と「グー」が併存していた段階で暴力的な場面の裏にジャンケンというゲームの世界が滑り込まされていたのだ。こうやって見てみると、既に「握りこぶし」といういささか古めかしい言い方をされていた時点でジャンケンへの移行のたくらみ=兆候が隠されていたことがわかる。もしこれが「振り上げた握りこぶし」ではなく「振り上げた怒りのパンチ」となっていたら、ジャンケンへの移行の作意が目立ちすぎてシラケてしまうだろう。「握りこぶし」は、読者が自分の先入観で勝手に勘違いして読んでいたと思わせるあわいのところに位置する言葉であって、ちょうどいいのだ。
これまで「握りこぶし」と「グー」という似たものが繰り返されることを見てきた。それは世界の見え方が暴力からジャンケンゲームに移行するための装置であった。そう考えてくると、この歌で繰り返されるもうひとつ言葉「振り上げ」るの意味もわかってくる。短歌のように短い形式で何かを語る場合、同じ言葉を繰り返すことは情報量が減少してしまうので通常は避けるはずである。にもかかわらずそれをやるということには何か理由があるはずだ。違う言い方をすれば、それをやったことの効果が生まれるということである。言葉を反復すればリズムが生まれるが、それをそこでやることの意味である。
はじめの「振り上げた」は「握りこぶし」について言っている。次の「振り上げておけ」はジャンケンの「グー」について言っているものである。つまり別の世界の身体の動作なのだ。だから「振り上げ」るという同じ言葉を繰り返すことは世界の見え方の二重性(ダブリや残像)を読者にもたらしていることになる。この短歌に流れる時間は直線的に進むというよりは、二度目の「振り上げ」るの直前で切断され、最初の「振り上げ」るのところに移動されて貼付けられる。枡野は「短歌は一行書きにせよ」とどこかで書いていたが、この短歌を図像的に書けば二行の分かち書きになる。

 振り上げた握りこぶしはグーのまま
  振り上げておけ相手はパーだ

二行めは一枡空けておいたが、この空間は世界の変化(ズレ)をもたらす認識の遅れを表現したものである(我ながら芸がこまかいですな)。
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相手を殴るための「こぶし」がただのジャンケンの記号へと無害化してしまったわけだが、そうなったのはおそらく語り手自身がそうしたかったからである。どういうことかというと、語り手も「こぶし」を「振り上げた」まではよかったが(つい勢いでそうしてしまったのだろう)、そのあとこの場をどう収めればよいかわからなくなってしまったのだ。自分も本当は「こぶし」を振り下ろしたくなかったのだろう。だから振り下ろさないでよいようにこの状況をジャンケンに見立て、認識の枠組みをスライドさせたのだ。
この状況がジャンケンだとすると、相手がパーを出しているので、こちらがグーをだせば負けてしまう。もちろん相手が実際にパーをだしていたのではない。語呂合わせによってそう見立てられたのである。だからこれは自身の認識のなかでのみ完結する論理(見立て)である。漫画風に言えば、軽く「ふっ」と笑うのだが、その意味が相手にわからない。おそらく相手はなぜこちらが動作を途中でやめたかわからない。
このジャンケンの見立てをもっと推し進めてみると面白い。相手はパーだとみなされているのだが、実はそうではないのだ。相手は先にパーを出す(あえてパーとみなされる)ことによって、こちらのグーを封じているのである。「振り上げた握りこぶし」を振り下ろせないというかなしばりのようなジレンマに追い込んだのだ。そもそも「振り上げ」たくなかったのかもしれないのに、その「振り上げた」腕が疲れても振り下ろすこともできないのだ。もしこの状態でジャンケンの論理で勝とうと思えば、パーにたいしてチョキを出すしかない。しかしチョキの手の形をよく見ると、それはピースサインになっている。つまり戦いは終わり、平和にやろうよということになる。パーの相手には暴力(グー)ではどうしても勝てない仕組みになっているのだ。ジャンケンという型式にスライドされることによって、立場が強くなったのはむしろ相手のほうかもしれない。この歌が語り手の内面の言葉だとすると、「握りこぶし」を「グー」に見立ててしまうような内省=やさしさは、自分自身を縛ってしまうものになる。
この歌ではジャンケンは見立てに用いられているが、実はこの歌を知ったあとでは、ジャンケンをするときにこの歌が脳裏をかすめて、なんだかジャンケンにさえ悲しみを感じるようになるだろう。