枡野浩一の短歌は「わかりやすい」か?

これが、このウェブログを書き出そうと思った初発の動機=疑問である。
もっと正確にいうと、枡野浩一の短歌は「わかりやすいだけ」なのか、ということである。
枡野短歌が「わかりやすい」ことに異を唱えるものではない。しかし、それ「だけ」なのか、ということである。
枡野短歌は「わかりやすく」書くことをめざしている。作者がそう思っているからといって作品が「わかりやすく」なっているかどうかは別の問題であるが、とりあえずは「わかりやすく」なっていると言うことはできる。
だからそれを、散文を読むように次から次へと読んでは「アハハ、ウフフ、面白かったね」と、表層をツルッと読む「サーフィン型のエンタテインメント」として享受することも、あるいは「こういう気持ちわかるー」というような「あるある型共感」として読むこともできる。
しかしそれは「マスmass(大衆)」のありきたりな感性に「ノー」をつきつける枡野短歌に対するありきたりな読み方(解釈のしかた)というべきであろう。
(尤も、実は大衆のありきたりな感性などというものは存在するものではない。ありきたりな言葉で書かれてしまうからこそ、そう見えてしまうだけだ。だから枡野短歌は大衆を否定するのではなく、大衆を作り出してしまう様式化された感受を否定するのだ。)
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糸井重里命名し、みずからもそれを名乗っている「かんたん短歌」の定義は、「簡単な言葉だけでつくられているのに、読むと思わず感嘆してしまうような短歌」(『かんたん短歌の作り方』(二〇〇〇年、筑摩書房)、八頁)である。しかし「かんたん短歌」は「簡単」につくれる短歌のことではない。「とてつもないテクニック」が必要である。だから同書のような入門書が必要なのだ。一方「かんたん短歌」はつくるのがむずかしすぎる短歌というわけでもない。実際、同書には素人がつくったかなり面白い作品が掲載されている。要は「かんたん」という言葉にまどわされないようにということである。
筆者が推測するにおそらく実作者として枡野は、誤解をうみやすい「かんたん短歌」という呼称を受け入れるのに一瞬の躊躇があったのではないだろうか。しかしそれは枡野ふうの短歌を世に広めるのに役立つネーミングとして戦略的に受け入れられたのであろう。
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さて、「かんたん短歌」はつくるのは簡単ではないということを確認しておいた。では読む(解釈)のは簡単なのか。先の定義では、「簡単な言葉だけでつくられているのに、読むと思わず感嘆してしまうような短歌」ということであった。「簡単な言葉だけでつく」ることをめざすということは、簡単に読めることをめざすということであろう。簡単に読めることは「わかりやすい」こととほぼ同義である。
枡野浩一の長編小説『ショートソング』(二〇〇六年、集英社文庫)にはこういう会話がある。先輩の歌人(伊賀寛介)が後輩に短歌についてレクチャーする場面。テーブルには何人かの歌人たちの歌集が並べられている。

「あの……すみません、僕にはなんか難しいみたいで……伊賀寛介歌集はすごくわかりやすくて、面白かったのに」
「まあ、初心者には、そうかもな。(以下略)」(五五頁)

この小説では伊賀寛介は枡野浩一本人のある一面をモデルにしている(もう一人の主人公で短歌結社に入らない国友も作者を分有している)。フィクションの登場人物イコール実在の人物では決してないが、「伊賀寛介歌集はすごくわかりやすくて、面白かった」という感想を、もしこれが「かんたん短歌」への感想であるとするなら、「そうだろ、面白いだろ」と伊賀寛介は喜んでいいはずである。まさに「かんたん短歌」のめざすものが理解されているからである。しかし伊賀寛介はここで何故か「まあ、初心者には、そうかもな」などと屈折した留保つきの返事をしているのである。ここには、「かんたん短歌」を「わかりやすくて、面白い」ものであると受けとるのは「初心者」の解釈でしかないということが開陳されているのだ。「初心者」でなく中級、上級者にはもっと別様の解釈があることがほのめかされている。
「かんたん短歌」は先に述べたようにつくるのが簡単ではなく、今またここで引用したように解釈も簡単ではない。世間一般では「かんたん短歌」のイメージはその語感からして、つくるのも解釈するのも簡単な短歌であると思われているだろう。しかしそうではない。もう一度、先の定義を引用してみよう。
「簡単な言葉だけでつくられているのに、読むと思わず感嘆してしまうような短歌」
ここには、つくるのも読むのも簡単だとは書かれていない。それはたんに「簡単な言葉だけでつくられている」短歌なのだ。(後半の「感嘆」するというのは語呂合わせで導かれた言葉であろう。「感嘆」することは何も「かんたん短歌」の本質ではなく、他の短歌についても言えることである。)
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このブログでこころみるのは「かんたん短歌の作り方」ではなく「かんたん短歌の読み方」である。ただしそれは作者の意図を闡明するようなものではない。むしろ枡野浩一自身も知らなかった枡野浩一が発見できるようなものになるだろう。簡単な表現の裏に豊穣な世界がひろがっているのを示すことができたら本望だ。
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この試みを作者自身がどう受け止めるかはわからない。面白がるよりは、創作の邪魔になるとして煙たがるかもしれない。枡野はこう書いている。
「益田さんは『(自作を読者に)どう受けとめられても気にならない』と言うけど、私は『自分の意図を極力そのまま読者に伝えたい』という欲望が強いみたいだ。もちろん最後の最後はどう曲解されてもオッケーなんですが、最初から読者の『善意の誤読』を期待するのが、ずるい気がしてヤなの。」(『日本ゴロン』二〇〇二年、毎日新聞社、128頁)
枡野がここで「最初から読者の『善意の誤読』を期待するのが、ずるい」と言っているのは、言葉どうしの結束がゆるいままにして作者による意味の限定をひかえめにしておき読者による多義的な解釈へと作品を開いておく、そういう読者まかせのやり方がいやだということだろう。「太麺と細麺を選べるラーメン屋も大嫌い。『うちの店の味はこれ!』と堂々と押しつけてほしい」と書いていることからもわかる。
たしかに、読者に作品を開いておくのは作者の段階で意図すべきことではない。あえてそうするとしたら、それは力量不足の糊塗かイヤミになるかのいずれかだろう。というのも、それは読者が勝手にやってしまうことだからだ。「読者に作品を開」くという「意図」すら読者は「誤読」する。
枡野が「自分の意図を極力そのまま読者に伝えたい」ために選んだ方法が、できるだけ簡単な言葉で短歌を書くことなのであろう。簡単な言葉であれば読者の誤読も減るというものだ。しかし枡野がどれほど「自分の意図を極力そのまま読者に伝え」ようとしても、「自分の意図」とは異なる無数の解釈が存在してしまうことは避けられない。あまのじゃくな筆者はここで、いっけん簡単な言葉だけで構築されていて他に解釈のしようがないように見えるものについて、そうではなく多様な解釈がありうるということを意地悪にも示したいという誘惑に抗しえない。テレビドラマの『33分探偵』ではないが、「この短歌の解釈、かんたんには終わらせませんよ!」ということだ。ただし『33分探偵』と違って、独りよがりの「誤読」でない範囲で提示していくようにしたい。(ここで用いる「誤読」とは、「作者の意図」から逸れるものを言うのではない。あきらかにテクストの通常の読みから逸脱したこじつけを言う。)テクスト論的には、あえてする誤読戦略があるが、今回は対象になじまないので採用しない。
(誤読については次のサイトが雑学ふうに面白く読める。中盤あたりには短歌についての言及もある。)
http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/gokai.html

先に『ショートソング』を引用しておいたが、そこで作者が登場人物の口を借りて言わせていることが気になっている。枡野も、「自分の意図を極力そのまま読者に伝えたい」と思う一方で、それだけでは終わらせたくないと思っているのではないだろうか。枡野の実存は「かんたん短歌」にぴったり一致するというよりは、「かんたん短歌」という戦略からはみ出した部分にも広がっているように思う。
「かんたん短歌」は簡単な読みをほどこして済ますこともできる。受容の仕方としてはそれで一旦完結しているといえるだろう。しかしさらに深く読むこともできる。もしかしたらそのほうが作者の深層意識に近いかもしれない(それを探ろうとか近づこうというわけでは決してないけれども)。少なくとも伊賀寛介は楽しんでくれるだろうことは間違いない。