現代詩と歌詞

・最近、詩と歌詞について書いてみたので貼っておく。たんなる思いつき程度のもの。ご意見募集。

 さて、学校の現代文の授業のなかでは詩を読んだりすると思いますが、教科書に載っているのはちょっと昔の、萩原朔太郎とか中原中也室生犀星といった明治生まれの詩人が中心ですね。新しくても谷川俊太郎茨木のり子とかで、それでも大正の終わりか昭和初期の生まれです。みなさんのおじいさん、おばあさんくらいの世代になります。不思議なことにその人たち以後は、誰もが知っているような詩人というのは出てきていないんですね。現役の詩人で一番人気があるのがいつまでたっても谷川俊太郎という状態がずっと続いています。
 これは詩人と言われる人が少ないからではないようです。日本現代詩人会という日本を代表する詩人の団体がありまして、ホームページにその会員数を載せています。一九六〇年は二二一名でしたが、その後右肩上がりに増え続けて、二〇〇〇年はなんと九二八名になっています。入会資格は詩集や詩論を出版した者という条件がありますが、本屋の詩のコーナーはあまり盛況な感じがしません。ひっそりしています。詩集は売れないと言われていて、出版しても一〇〇部とか二〇〇部売れればいいほうです。詩人の数とジャンルの成果は比例していないような気がします。 現在はどうかというと、二〇一二年八月の通常総会の報告を見ますと、会員数は一〇三一名とさらに増えています。ちなみに、日本ペンクラブの二〇一三年五月現在の会員数をその名簿から数えてみると一七二六名、同時期の日本文藝家協会の会員数は同様に二五四二名いました。いずれの団体も文筆業関係者の集まりで、詩人を含め小説家、エッセイストなどジャンルが広いのですが、それでも詩人の倍程度の人数です。先のホームページのエッセイでは、「日本現代詩人会は会員の数と質においてすでに許容限度を超え、極言すれば崩壊寸前にあると私は見る。入会雪崩は必ず退会雪崩を誘発するにちがいない」と危機感をもって書かれていますから(「活動の歴史」http://www.japan-poets-association.com/about/katsudourekishi/)、会の実質と会員数の増大が噛み合ってないと認識されているのです。詩人が増えたことが詩の隆盛を反映しているわけではないようです。
 詩人は増えたけど、詩はそんなに盛んになっていないのではないかというのは、この会が主催しているH氏賞をみてもわかります。H氏賞は新人を対象にした詩の賞で、結果が新聞などにも掲載されます。詩人の登龍門的な存在です。ウィキペディアH氏賞の項目を見ると、第一回の一九五一年から第六三回の二〇一三年まで名前が掲載されていて、八〇年代前半くらいまでは名前の文字が青色になっている人が大半なんですが、八〇年代後半以降は赤い文字の名前がめだって多くなるのです。赤い文字の名前はつまりその人の項目がウィキペディアで立てられていないということです。せっかく大きな賞を受賞したのに、その後活躍できていないんですね。詩人の人数は増えたけど、詩は盛んになったかというと、どうもそうではないらしいのです。
 さて、八〇年代の後半になると、角川文庫で出ていた銀色夏生が流行りました。これは詩というか写真+ポエムなのですが、やはり詩のひとつには違いありません。この人は一九六〇年生まれのようですから、みなさんのおとうさん、おかあさんの世代ですね。
 九〇年代の半ばくらいになると、「詩のボクシング」という、リングの上で詩を朗読する催しが出てきました。ひところテレビでも放映されたし、まだやっているようですが、最近はあまり耳にしなくなりました。
 詩の状況に比べたら、短歌や俳句のほうが私たちの生活に浸透してきていて、本屋の棚をみても活気がある。社会が高齢化したせいでお年寄りがとっつきやすい文芸であるとか、新聞などに投稿欄があるとか、いろんな理由があると思います。例えば短歌だと、なんといっても一九八七年に出版された俵万智の『サラダ記念日』の影響は大きいのですが、ジャンルを魅力あるものにする若い才能が登場してきています。穂村弘枡野浩一林あまりなどの名前を聞いたことがあると思います。この人たちは六〇年代の生まれです。
 詩を書いたり読んだりする若い人はどこへ行ってしまったのでしょうか。私はそれはシンガーソングライターの歌詞に向かったのだと思います。それまでの紙媒体の詩から、レコードやCDに変化してきたのだと思います。発表する媒体の変化が作品のジャンルを変えるというのは、似た状況が美術でも起きています。地方の公募展なんかを見に行くとよくわかります。美術展のメインというと油彩画ですが、出品しているのはお年寄りばかりです。若い人は高校の美術部の生徒くらい。では若者が絵を描かなくなったのかというとそんなことはありません。イラストとかマンガの方に流れてるんですね。昔からの公募展にだすのでなくネットにアップしたり同人誌をつくったりする。時代にあった、よりポップな創作方法に若い人は移行しているのです。
 都築響一は『夜露死苦現代詩』(二〇〇六年、新潮社)でこう書いていました。
「コンビニ前にしゃがんでる子供が、いまなにを考えてるかといえば「韻を踏んだかっこいいフレーズ」だ。60年代の子供がみんなエレキギターに夢中だったように、現代の子供にはヒップホップが必修である。だれも聞いたことのない、オリジナルな言葉のつながりを探して「苦吟」するガキが、いま日本中にあふれてる。国語の授業なんてさぼったままで。/いったいいままで、若者たちがこんなに詩と真剣に向きあった時代があったろうか。」p9
 都築響一はその後『ヒップホップの詩人たち』(二〇一三年、新潮社)という本も出していて、オリコンのチャートには載ってこないけど若者に影響があるヒップホップの作り手たちにインタビューしています。Jポップのような商業主義とは違って自分が言いたいことを言って情報発信するヒップホップのほうが新たな時代の詩の書き手として理解しやすいとは思います。でも、受け手の大きさとしては、やはりJポップの歌詞の方が勝っていると思います。
 詩人の野村喜和夫は『現代詩作マニュアル』(二〇〇五年、思潮社、詩の森文庫)という本で日本の現代詩五〇年の歴史を書いています。そこでは一九六〇年代が黄金時代とされ、七〇年代以降は大衆社会の到来によって、それまで知識人やその予備軍である学生が享受していた高級文化である現代詩は、あるいは通俗化し、あるいは隠秘化していったといいます。八〇年代に入るとその状況は加速し、九〇年前後に二人の代表的な詩人の死によって「戦後詩の時代が終わった」「現代詩そのものが何かしらの終わりを迎えた」とまでいいます。
 ここで通俗化という視点は見逃せません。現代詩でそれをやったのが荒川洋治(七〇年代)やねじめ正一(八〇年代)だと指摘されますが、詩が生き延びるために通俗化するという方向性をとれば、それはもう流行歌の歌詞があればそれで充分だというところまであと僅かです。
 一九六〇年代の後半に詩の全集がブームになって、各出版社から何種類も日本や世界の詩全集が出てよく売れたので、商業的にも六〇年代が詩の黄金時代だったというのはわかります。現代詩の黄金時代が六〇年代だとすると、詩の閉塞と入れ替わるように歌の自作自演が盛んになっていきます。流行歌を作るのは、かつてはそれぞれのレコード会社に専属の作詞家・作曲家がいたのですが、一九六〇年代半ばにビートルズの影響でグループ・サウンズが流行ると専属作家の制度が壊れていき、若い作家らが歌詞を書き、バンドのメンバーが自前で曲を書くようになりました。なかにし礼とか阿久悠といった職業作詞家は一時代を画しました。一方で、フォークやニューミュージックのグループやロックバンドが出てきて、彼らは自分で作った歌を自分で歌いました。阿久悠ピンクレディー松本隆松田聖子秋元康おニャン子クラブやAKB48のように、作詞家はアイドルを売り出すにあたってプロデューサー的に関わることがありますが、たんなる商業主義でなく自己表現したい人たちが増えると、次第に作詞専門という人は少なくなっていきます。作詞くらい自分でできるということでしょうか。現代詩が衰退していったのと入れ替わるように、ポピュラーソングのほうでは自作自演が増えていくのです。
 詩と歌詞の関係というのは昔から親密でした。北原白秋西条八十といった人たちは詩人であり、作詞家でもありました。詩と歌は兄弟のようなものなんです。ですから、マーケットの大きいポップスに、紙媒体でささやかに発表される詩は呑み込まれる運命にあったかもしれません。現在のように専属の作詞家がいなくなり、いろんな人が歌詞を書くようになると、詩がなくても歌詞があれば充分じゃないかという気になってきます。詩に対する需要は歌詞で充分まかなわれてしまったのかもしれません。曲にのせて歌われる言葉である歌詞ではなく、あえて文字の詩として存在するならその存在意義が問われるようになる。詩にビジュアルの要素を加えた相田みつを星野富弘といった系譜があって、相田は大正の終わり頃、星野は戦後すぐの生まれです。相田は書家で、星野は味のある書体に花などの植物のイラストを添えています。言葉の内容のほかに、形の面白さで作品ができています。九〇年代終わりから活躍しはじめた326(ミツル)という人がいまして、この人は詩にイラストを添えていました。彼の成功によって、ひところ路上で自作のビジュアル詩を売っている若者をよく見かけるようになりました。ちなみに326(ミツル)は作詞もしています。相田みつをから326に至る言葉プラスαの系譜では、内容は人生訓ぽいのが特徴です。書かれた詩はこうした作品として残っていくかもしれません。これなら歌に吸収されない部分が残っています。銀色夏生の作品も写真が欠かせませんでしたね。ビジュアル詩ではなく、音声によって詩を賦活しようとする詩のボクシングも、歌詞に取り込まれようとする現代詩がその生存すべき方向を模索する試みのひとつであるように思えます。
 詩のボクシングを始めた楠かつのりはこう書いています。
「いまや喜怒哀楽の感情の発露が、ポップスやロックの歌詞に奪い取られている。実際、例えばL'Arc〜en〜Ciel(ラルク・アン・シエル)の歌詞は、戦後の現代詩を跨いで朔太郎の憂鬱な抒情性につながっているように思える。この抒情性だけをクローズアップさせれば、それはある意味において、萩原朔太郎立原道造の正当な継承者は現代のロックやポップスだということもできるだろう。」(『詩のボクシング 声の力』一九九九年、東京書籍)p160
 ここには現代詩が生き残るための危機感のようなものが感じられます。
 そもそも歌と詩とどちらが古いかといえば歌のほうです。歌から曲を取り除いたものから近代の詩のかたちは生まれてきたのであれば、やがては歌に還っていくのは自然かもしれません。寺山修司は「戦後詩の歴史は、活字による詩の歴史である。」(『戦後詩』)と書きましたが、戦後詩のみならず近代になって西洋の詩を真似た詩の形式ができたときからそうですね。口語自由詩というのは書き言葉による詩です。そしてそれは改行による余白の見せ方、句読点の打ち方、漢字の使い方などを工夫して活字で見せるものになっていきました。一方で、それへの反省から、口に出したときの楽しさを求める試みも出てきました。「いるか いるか いないかいるか」という、言葉の繰り返しや、似た音をもつ言葉の響きあいそれ自体を楽しむ谷川俊太郎の『ことばあそびうた』なんてその典型ですね。曲をつけずに歌う日本語ラップというのは、メロディに頼らないかたちで言葉を伝えようとするときにどういう方向に行くと人々に受け入れられるか試みたときに、これまで申し上げてきた要素である、書かれた詩、朗読、韻を踏むことによる響きの楽しさ、人生訓的な内容といったものを総合したようなものになっていると思います。
 詩は音楽の状態に憧れるとはよく言いますが、そもそもそれが自分の出自なのです。紙に書かれた詩というジャンルは、明治から昭和にかけての時代的なものだったかもしれません。平安時代の『梁塵秘抄』、室町時代の『閑吟集』のように、歌として書かれたものが、曲が失われたことによって、今の私たちはそれを詩のように読んでいます。それほど遡らなくても、昭和の歌謡曲でも曲を知らないで歌詞を読めばまるで詩のように読めるものがあります。
 まえおきが長くなっていますが、これまで言ったことをまとめると、詩は廃れて歌詞は栄えているということです。ただ、これからやるのは、逆に、歌詞を詩を読むように読んでみようということです。詩は廃れて歌詞は栄えているというのは、逆に言うと、皆さんが普段接している詩というのは、ポピュラーソングの歌詞だということです。歌詞を曲から切り離せば、それは詩になる。あなたたちがJポップの歌詞に感動しても、そういう歌詞は学校ではあまり取り上げてくれない。国語の教科書には中島みゆき松任谷由実といった人たちの歌詞が詩として採用されていますので全く無視されているわけではないようですが。Jポップの歌詞も丁寧に読めばそれなりの構造をもっていることがわかります。