かなしみはだれのものでもありがちでありふれていておもしろくない

 たとえば失恋したときの「かなしみ」など、当人にとっては切実なことでも他人にとっては「ありふれ」た風景のひとつでしかないことがある。もっと切実な親しい者の死についても、当事者の「かなしみ」は他者にとっては「ありふれ」た反応の一つでしかない。あいかわらず「泣ける小説」や「泣ける映画」がもてはやされている。この短歌をそういったものへの批判として読むことができる。
 トルストイは『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭で「幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸だ」と書いたが、この短歌はその書き出しをさかさまにしたものであるかのようにいっけん思える。しかしこの短歌の「かなしみ」を「よろこび」や「いかり」に変えても同じような歌は詠めるだろう。結婚式の喜びは身内以外には「ありふれ」たものだし、弱者を見捨てる政治への怒りも「ありふれてい」る。要は私たちの感情は既に表現されたものをなぞるばかりで、陳腐な反応しか示せないのに、それをいちいち特別なことのように祭り上げるなというシニカルな視線である。
          *
 語り手は「かなしみ」にではなく、それが「ありがち」であることに反応し、それゆえ「おもしろくない」と切り捨てることで「かなしみ」という感情に価値をおかないかのような態度をとっている。面白いとか面白くないとかいう判断を示すことは、他者の「かなしみ」に共感しようとする態度ではなく、それを自分には直接関わりのないものとして対象化し消費しようとする態度である。それは道徳的に非難されるべきものというより、誰にも少しは身に覚えがあるはずのものである。
 この短歌は外見に特徴があり、全部ひらがなで書かれている。漢字かな混じり文よりも読みにくい。適度に漢字が混ざっていれば瞬間的に意味を把握できるが、ひらがなばかりだと一字ずつ文字を目で追わなければならない。そのため、たどたどしい読みになる。たどたどしい読みにおいては、全体が一度にわからないので細部に気をとられながら読むことになる。ここで言う「かなしみ」って何だろう、「ありがち」ってどういうことだろう、という具合に、一度に理解されてしまうときには見過ごされてしまう意味に気を配るようになる。書き手は、全てひらがなにすることで、いっけん誰にもわかりやすく書いたように見せかけているが、実はすんなりとは読まれたく(理解されたく)なかったのだ。違う言い方をすれば、悲しみは誰のものでもありがちでありふれていて面白くない、と語る語り手の語りをそのままストレートに受けとるなということである。この語りは字義どおりのものではなく、もっと屈折した心情のあらわれであることを、あえてたどたどしく読まれることで表現したかったのだと思える。どういうことかというと、「ありふれていておもしろくない」と切り捨てられる「かなしみ」は、実は、語り手自身のそれでもあるということなのである。
 当人にとっては切実な「かなしみ」が「ありがち」であること、そして「ありがち」と同義語である「ありふれていて」を繰り返して「かなしみ」の状態が特別な状態ではないということを歌の語り手は強調する。しかしそれはまるで語り手が自分に言い聞かせているかのようでもあるのだ。どういことか。実は、「おもしろくない」と言っている語り手自身が本当は何か「かなしみ」を抱えていて、語り手のその「かなしみ」に比べたら他の人の「かなしみ」など「ありふれ」たものだと感じているのではないか。しかしこの歌はそこから反転し、この歌をつぶやくことによって語り手自身も自分の「かなしみ」を「ありふれ」たものであるとみなし、そんなに落ち込むなと自分を慰めているのではないだろうか。