こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう

 この歌にはおどけた感じと思いつめた感じとが同居している。おどけた感じは「ふざけた」という語がもたらすもので、思いつめた感じは「どんなあすでも」というちょっと気どった言いまわしから来ている。そして前半のおどけから後半の生真面目さへシフトするきっかけになっているのが「以上」という言葉である。この「以上」には、どこかキッパリしたところがある。たとえばこれを「以上」を使わずに、同じ意味の別の言葉で書き換えてみると、
・こんなにもふざけたきょうがあるからには どんなあすでもありうるだろう
・こんなにもふざけたきょうがあったので どんなあすでもありうるだろう
となって、なんだか締まりがなくなってしまう。後半の重くのしかかってくる「どんなあすでも」という部分をギュッと受けとめるには、やはり「以上」が適当なようだ。違う言い方をすれば、「以上」があるせいで、「どんなあすでも」がリアリティをもって聞こえてくる。
 この歌は全体がひらがなで書かれているが一部分「以上」のみが漢字になっている。「以上」の使われ方は今見たとおりだが、これが漢字になっているのは構造からも理解できる。この歌は対句的なのだ。
・こんな きょう ある
・どんな あす  ありうる
「以上」を中心にして、この二つの文が左右(縦書きでは上下)に配されているので、対比が一層はっきりわかる。「以上」は接続助詞として用いられており、この二つの文の関係を論理づけている。「以上」は漢字であることによって滑り止めのような働きをしている。全部ひらがなだと均質に流れてしまう視線をそこでとどめ、一旦ふんばったあとで溜めを作って後半につなげているのだ。
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 この短歌では「こんな」とか「どんな」といったコソアド言葉が用いられている。「こんな」とか「あんな」とか言われても、読み手にはその内容がわからない。そこで読み手はイメージを自分の経験から引っ張りだして推測することになる。「コ・ソ・ア」系の指示詞は、それを指すものが文中にないとき、読み手がそこに自分の経験を代入して補ってやるという作業が一手間要請される。それがうまくいけば読み手にダイレクトに訴えかけてくるものになるだろうけれど、しかし一首の自律性としては弱いものと言わざるをえない。
 筆者(見崎)はこれまで歌詞の分析などをとおして「あの頃」だの「あの日」だのといったコソアド言葉を多用する歌にはあまりいい歌がないと思っていた。そもそも代入的な読み方(解釈)には疑問があるし、歌詞の書き手がもしそういう意味で読み手の経験を資源として利用しようとしているなら手抜きだと思う。代入主義の書き手はそのほうがイメージが限定されないので、読み手に応じた汎用性があるみたいなことを言うが、書き手が構築したイメージを楽しむのでなければ人の作品を読む意味はないだろう。代入主義の書き手がやろうとしていることは読み手の記憶についたタグを引っ張ろうとしているだけだ。
 話が脱線したが、短歌に戻る。
 この短歌の「こんな」や「どんな」はどういうものなのか。この歌が本の中で置かれた位置をまず考えてみると、筆者がテクストとして用いている『ハッピーロンリーウォーリーソング』(角川文庫)は『てのりくじら』と『ドレミふぁんくしょんドロップ』を合本にしたものであるが、この短歌はその本の2番目に配置されている。1番目は、
・あしたには消えてる歌であるように冷たい音を響かせていた
という短歌である。これは文庫のための新作である。内容としては「自分の短歌についての短歌」である。本でいえば「文庫版のための序」みたいなものであろう。この歌の次に置かれているのが、
・こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう
である。読者がこれから読むことになる約100首の短歌の冒頭に置かれていることになる。一首の「こんな」とか「どんな」はこの歌だけでは内容が不明だが、それは以下の100首が言い表しているというふうに読める。つまりこの歌はサブタイトルのようなもので、以下の100首を予告しているというか総括しているものなのだ。「こんな」や「どんな」が指示するものは当該短歌の中には存在しないけれども、同じ本の他の短歌として存在するのである。
 こう書いてくると、本での配置はわかるが、それではこの歌が書かれた瞬間を捉えていないと反論されるかもしれない。しかし作家主義的に考えても、このあからさまな脱具象性を見ると、「この短歌は作家主義的に理解するよりは、それが置かれたコンテクストで理解してくれ」という意図のもとに書かれたように思える。
 読み方の順序は制作の順序と一致しない。どういう心情においてであれ一旦出来上がった歌は、それがどういうふうに使われるかによって読まれ方が異なる。「使う」というと何か嫌な感じがするかもしれないが、この短歌はそのように使うことができる短歌なのである。実際、枡野は自分のブログのタイトルにこの短歌の前半部分を用いていたことがあるように、意味が限定されていないために使途に応用がきくコピーでもあるのだ。しかしそれは読み手に経験の代入を要請するものではなく、それが指示するものを一首の外部に作者が配置しているものなのである。
 この短歌は読み手の経験を安易に利用しようとせず、あくまで作者の「こんな」であり「どんな」となっていることを一首の外部を持ちださずに、別の角度から説明してみる。
(念のため書いておくと、筆者(見崎)は、読み手の経験を指示詞によって作品の中に繰り込もうとするコソアド作品には批判的で、あくまで作者のコソアドによりかかったものを評価するというスタンスである。このことは上述の文章から読み取れると思うが、ネット利用者は多様でそのリテラシーの落差が激しいことを再認識したのであえて注釈しておく。)
 この短歌のコソアドは作者の経験=感覚に依拠したものであり読み手は容易には近づけないものであるのは、コソアドで指示される対象(ふざけたきょうの内容)が、安易な理解を拒むものであるからだ。何故かというと、「ふざけたきょう」は語のコロケーション(自然なつながり)としては違和感があるからである。
(コロケーションについては下記がわかりやすい。)
http://park1.wakwak.com/~english/note/note-collocation.html
 もし筆者が同種の歌をつくったとしたらこんなものになるだろう。
・こんなにも無意味なきょうである以上どんなあすでもありうるだろう
「無意味」は「無益」でもいいが、要は無駄な一日であったということだ。いずれにせよこういう歌をつくるとき、筆者の感覚では「ふざけた」という語を持ち出せない。語のコロケーションとして「有意義な一日」とか「充実した一日」といったものがあり、その反対の状態として「無意味な一日」「無駄な一日」「むなしい一日」が思い浮かび、それを「無意味な今日」「無駄な今日」として発展させることはできる。しかし「ふざけた一日」とか「ふざけたきょう」は思いつかない。だから「こんなにもふざけたきょう」と言われても、それは語り手にとってそういう何かがあったのだろうとは思えても、筆者の経験をそこに簡単には代入できないのである(うんと考えれば思いつくかもしれないけれど)。その点でこの歌はコソアドで読み手を誘っていながら、一方で安易によせつけないという奇妙なものになっている。(注:ここで「奇妙な」というのは評価してそう書いているのである。文芸においては凡庸さや陳腐さよりも奇妙さ=新奇さのほうが価値がある。)
「無意味なきょう」というのは「最悪なきょう」とは微妙に違う。「無意味なきょう」はニヒリスティックで、何もなかった「きょう」ということだ。いわば「ゼロ」である。一方「最悪なきょう」は悪いことではあっても何か出来事があった「きょう」である。こちらは「マイナス」かもしれない。「ふざけたきょう」は「最悪のきょう」に近い。それは何も起こらなかったのではなく、何かしら事件が起きたのである。何も起こらなかったということは生命力が枯渇した状態にあったといってもいい。たとえそれが「ふざけた」ものであるにせよ何かしら事件が起きたということは、生命力が活性化された状態にあったということだ。今日、何も起こらず無意味な一日であれば、明日も何も起こらず無意味な一日で終わる可能性が高い。しかし今日、生命力が賦活された状態にあれば、明日もきっと何かが起こる。そういう意味で「ふざけたきょう」はそれが良い方向か悪い方向かは別にしても「勢い」だけは持っている。
 この歌は二とおりに読める。ひとつは、今日で底を打った、こんなに「ふざけた」一日を乗り切ったので、やや不安があるが、どんな明日がきても大丈夫だ、乗り切れるだろう、どんとこい、というポジティブなもの。もうひとつは、今日で箍(たが)がはずれて無秩序になり、今後はどんなアナーキーな明日になるかわからないというネガティブなもの。ただ、それがネガティブであるとばかりはいえない。混沌から何かが生まれるかもしれない。「ふざけたきょう」は、ひっかきまわされた今日である。いろんなことが化学反応しあってそこから思いもしなかった活路が開けるかもしれない。絶望と希望がないまぜになった明日なのである。一旦腹をくくってしまえば、どうなるかわからないというのは楽しみでもある。少なくとも、澱(おり)のように堆積した古くさいものは吹き払われ、日常の生きる場(システム)は活性化されたのだ。
 語り手は「こんなにもふざけた」今日と言っている。「あんなにもふざけた」今日ではない。もし「あんなに」であれば、語り手を打ちのめした「ふざけた」出来事は既に語り手からある程度の距離をもったものとして冷静に眺められたが、語り手はいまだ「こんなにもふざけた」と言っており、まだその「ふざけた」の圧倒的な影響下にいるのだ。
 しかしながら、そのダメージもなんとか制御されつつあるようだ。語り手は落ち着きを取り戻しはじめているようにもみえる。というのも「きょう」はこうだった、「あす」はこうなるだろうという枠組みで整理されているからである。どんなに「ふざけた」ことがあったとしても、それは「きょう」の出来事の範囲内に納まっているのだ。いわば日記を書くように今日のこととして内省されており、「ふざけた」出来事としてコンパクトにまとめあげられているのだ。あまりにも支離滅裂で収拾のつかない出来事であれば語り手の頭はパンクしてこんな落ち着いた歌を詠んでいられない。逆にいえば、歌をつくることで今日の出来事を自分の人生の中になんとか位置づけようとしているのである。そしてそのことは「が」が「で」ではないことによく表れている。この歌は、
・こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう
であって、
・こんなにもふざけたきょうである以上どんなあすでもありうるだろう
ではない。「きょうが」を「きょうで」に置き換えただけだが、この違いは大きい。もし「きょうで」となっていたら、そう思っている自分の意識はまだ今日に属し、今日の終わりあたりに一日を省みたというだけの歌になってしまうが、「きょうが」とあることによって、「きょう」を対象化し外から眺めている感じが強まる。「きょう」や「あす」はたんなる一日として抽象化される。切実さが失われるかわりに「どんなあすでもありうるだろう」という「ありうる」可能性が思惟しえるようになる。これは抽象性が高まったゆえに可能になる思考のはたらきだ。しかし仮に「きょうで」となっていて、今日の自分の具体的な滑稽さに捕われていたら、今日のことを考えるのに精一杯で、明日がどうなるかということにまで頭がまわらなかっただろう。それがネガティブな方向であるにせよポジティブな方向であるにせよ、明日のことにまで思考をめぐらすには今日とか明日を均質な時間の流れとして抽象化してとらえなければならないのだ。
 この歌はコソアド言葉で書かれていたり、「ふざけた」も、それがどうふざけたものなのか内容が不明の、いわば骨格だけが示されている歌であるが、骨格だけの歌でも、陳腐なものと斬新なものとがあり、短歌が一般に「ふざけたきょう」とくればその後にはそれについての内省が続くものだとすれば、この歌はそれを振り切って一気に「あす」への心構え=対処のようなものにまで進んでいる。そこが新しいといえるのではないか。