遠ざかる紙ヒコーキの航跡をなぞるがごとく飛びおりた君

「航跡」という漢語は日常ではあまり使わない(かんたん短歌にしては異例だ)が、「紙ヒコーキ」の「ヒコーキ」という響きから導かれて出てきたものなのだろう。語の反復によるリズムができたので内容的には暗い歌なのに、鬱屈した感じにはなっていない。
「なぞるがごとく」という文語的な言い方も「かんたん短歌」らしくない。ここは「なぞるみたいに」とでもすべきだが、そうしなかったのは「飛びおりた君」と続くので神妙な表現を選んだのだろう。
「紙ヒコーキ」を「紙飛行機」とせずカタカナにしたのは、その方が重ったるい漢字から解放されて紙の軽さが出るからだと思われる。「飛行機」という漢字では語が与えるイメージが強すぎる。また実物の紙ヒコーキと実物の飛行機はまったくの別物だが、「紙ヒコーキ」とせず「紙飛行機」とした場合、「飛行機」と「紙飛行機」とは一文字しか違わず、実物のイメージの落差をたった一文字の「紙」に担わせことになり負担が大きすぎる。せめて「紙ヒコーキ」と「飛行機」部分も「ヒコーキ」に変えてやりたい。
また続く「航跡」はこれは漢字でないと意味がわからなくなってしまうので漢字のままにすると、その「航跡」の文字を際立たせるためにも「飛行機」と漢字を続けないほうがよかったと判断されたのだろう。さらに、「紙ひこうき」とひらがなでもないのは、ひらがなだとふわふわした感じになってしまうからだろう(例えばユーミンの「ひこうき雲」を「飛行機雲」としただけでイメージがかなり変わってしまう)。
この「紙ヒコーキ」はふらふらと蛇行せず、まっすぐの「航跡」がふさわしい。それはまっすぐ「遠ざかる」ものである。追いかけるように「飛びおりた君」の迷いのなさも併せて表わしている。そう考えると、この「紙ヒコーキ」がどういう折り方をされたのかも何となく想像できる。フワフワと宙を舞うイカヒコーキでもなく、曲芸線を描くヘソヒコーキでもなく、先端が鋭くとがったミサイル型のそれだろう。そしてまっすぐ飛ぶ「紙ヒコーキ」を文字のタイポグラフィ(視覚効果)として表わすには、直線で構成されたカタカナがふさわしい。
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この短歌は二つの動きのベクトルを持っている。
一つは「遠ざかる紙ヒコーキ」が示す水平方向への動き、もう一つは「飛びおりた君」とあるように垂直方向への動きである。「紙ヒコーキ」は重力よりも浮力が勝っているあいだは悠々と飛んで行くが、「君」には重力にあらがう何の力もなく、ただ落下するしかなかった。ある地点から離れ、ここではないどこかへと飛ぼうとするところまでは同じだった。「君」と「紙ヒコーキ」は最初は同じ場所にいたのに、放たれた途端たちまち方向を異にすることになった。この、二つのベクトルが乖離してゆく図像的なイメージがこの歌を悲しくさせている。
歌の最後、「飛びおりた君」という言葉にたどりつく前に、この歌は既に悲しみを予感させている。冒頭に置かれた「遠ざかる」は時間と距離を表わしている。自分のところから離れてゆく距離と、それを見つめている時間である。「君」はすぐ「飛びおりた」のではない。少なくとも「遠ざかる」と感じるほどには躊躇っていたのだ。何かが「遠ざかる」と感じられることは、それに追いつきたいという感性を同居させている。
「なぞるがごとく」というのは残酷な表現だ。「なぞる」のは足先でなぞっていくということであろう。おそらく「なぞる」ことができたのは宙空に乗り出した最初の一歩だけである。忍者のように水面を走るには沈まないうちに次の一歩を出せばよいし、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』では崖の上から一歩を踏み出してもそこには見えない橋が架かっていたのだが、忍者でもインディもない「君」は宙空にとどまることができなかった。
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しかし、このようにこの歌を読むとき、私たちは既にある捕われの中にいる。それは「君」が高い建築物の屋上あたりにいて、そこから「飛びおりた」と思いこんでいることだ。けれども、極端なことをいえば、「君」は一階の窓から「紙ヒコーキ」を投げて、そのあとを追うために窓枠に足をかけて「飛びおりた」のかもしれない。それなら「君」はたんに元気いっぱいの少年であり、ケガひとつすることはないだろう。一階であっても、空高く投げてやれば空の彼方に「遠ざかる紙ヒコーキ」のイメージはそこなわれない。ただしその場合は「飛びおりた」というよりも「飛び出した」としたほうが適切になる。一階は極端だが、二階の窓辺で起こった出来事としてなら全くおかしくはない。二階なら「飛びおりた」としても骨折はしても死ぬ確率は低くなる。三階、四階と上がるにつれて結果の悲惨さは増す。この短歌の読者に、「あなたは『君』が何階にいると思いますか?」という質問をすれば、その人の失望の深さがわかるかもしれない。
筆者(見崎)の初読の印象は、「君」は学生で、三階くらいの教室の窓から「飛びおりた」と感じた。それは「君」にはどこか思いつめた感じがあったからだ。「思いつめた感じ」の由来は「なぞるがごとく」という部分にある。これはまるで催眠術にでもかかったかのような身体の動きだからだ。思いつめているせいで判断力が低下し、「紙ヒコーキ」に導かれるままに身体を動かしてしまった。「なぞる」ことができるのは、本来目には見えない「航跡」が見えてしまうからだろう。
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枡野浩一は暗喩は使わないという。たしかに例えば「飛びおりた君」などという言い方は他に解釈の仕様がないくらいストレートだ。しかしこの短歌では「紙ヒコーキ」は青春の夢や希望といったものの暗喩に思えてしまう。例えば326が作詞した「あの紙ヒコーキくもり空わって」では「紙ヒコーキ」には夢が描かれており、それは空に「虹を架ける」ものだとされている。「ボクら」も「紙ヒコーキ」と一体化するように「風に乗ってく」とされる。326の歌では「紙ヒコーキ」は夢や希望の暗喩というより、夢や希望を入れる容れ物の暗喩だ。そういう容れ物を持っていないと、そもそも夢や希望を持とうとさえ思えないだろう。
枡野の短歌でも「紙ヒコーキ」は夢や希望に関わる暗喩のように思える。だが、その暗喩のあとに枡野が続けるのは、暗喩を拒まれた現実、体重という現実の重みがある「君」である。「君」は暗喩なしに置かれたので、326の歌のようには飛べなくなってしまったのである。(念のため書いておくと、326の歌は一九九九年に、枡野の短歌は一九九七年に世に発表されたものである。)
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最後にもう一点。この「紙ヒコーキ」を投げたのは誰か、ということである。
「紙ヒコーキ」は突然現れて「遠ざか」っていったかのように筆者(見崎)には思える。「君」が自分で投げたものだという解釈には実は違和感がある。説明すると混みいったことになるが、自分で「紙ヒコーキ」を投げた場合を想像してもらいたい。手から離れたそれはしかし自分の身体とはつながっている。スーッと飛んでゆくのが気持ちいいのは自分の身体も同じようにスーッと飛んでゆく感じがするからだし、風が吹いて不安定になるとまるで自分の身体も不安定な感じになる。「紙ヒコーキ」は手から離れても身体の延長となって自分の感覚器を拡大させている。滑空する「紙ヒコーキ」と自分の身体は同調している。両者は一体なのだ。
しかしこの短歌では、「紙ヒコーキ」は「紙ヒコーキ」をとして存在し、「君」は「君」として存在しているようにみえる。それをよく表わしているのが「なぞるがごとく」である。「君」の目は「紙ヒコーキ」をそれを自分の延長としては見ていない。「君」が見るのは残された「航跡」だ。「航跡」をなぞるためには「航跡」を見なければならないからだ。
「君」でなければ、一体誰がこの「紙ヒコーキ」を投げたのか。筆者(見崎)には、この「紙ヒコーキ」は異次元からどこからともなく現れて「君」を異界へ連れて行こうとするもののように思える。ついフラフラと引きつけられる不思議なオーラをこの「紙ヒコーキ」は放っている。自分が投げた「紙ヒコーキ」であれば、そのあとを追って飛びおりるというのは奇妙な気がする。というのは、「紙ヒコーキ」は自分の代わりに飛んでくれているのであるから、すくなくとも「紙ヒコーキ」が飛んでいるあいだは、自分も同時に飛んでいたいと思わないはずなのだ。だからもし「飛びおり」るとしたら「紙ヒコーキ」が地面に落ちて一体感が消滅してからであろう。このあたりは微妙な感覚なのでわかってもらえないかもしれないが。
こう書いてきてことをひっくり返すようだが、「なぞるがごとく」と言うときの直喩「ごとく」がどこまで掛かっているのかを考えると、「紙ヒコーキ」じたいがかき消えてしまうこともある。つまり、「ごとく」が「なぞる」という部分にだけ掛かっているとすれば「紙ヒコーキ」は存在するけれども、村上春樹の小説の珍妙な比喩みたいに、「遠ざかる紙ヒコーキの航跡をなぞる」という部分全体が比喩だと考えることもできる。そうすると比喩にすぎない「紙ヒコーキ」は画面からかき消えて、存在するのは「君」だけになってしまう。「紙ヒコーキ」は言葉によって一瞬だけ作り出された幻なのだ。
この短歌に出て来る「君」は、限りなく語り手自身に近い「君」である。よく、「これ友達の話なんだけどさぁ」といって実は自分の失敗談を語るときのように、「君」と称しつつ実は自分の心境を「君」に託して語っているのである。枡野浩一がよく引用する佐藤真由美の短歌「百錠は飲み過ぎだった 痛いのを我慢できないあなたにしても」を例にしてもいい。この歌で鎮痛剤のセデスを飲んだとされる「あなた」とは、実は作者本人のことなのだ。(『日本ゴロン』二〇〇二年、毎日新聞社、125頁)しかし枡野の短歌で「君」と呼んでいる人物を短歌内フィクションにおいて姿の隠された登場人物だと考えてやると、「君」のことを観察して語る「僕」の姿が立ち現れてくる。「僕」はやけに冷静な語り手である。「僕」は「紙ヒコーキ」が遠ざかってゆくのをずっと見ていた。「紙ヒコーキ」を見てはいたが、「飛びおり」て視界から消えた「君」のその後の姿を追っていない。