サラダ記念日

短歌について書いたので貼っておく。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 俵万智
いわずと知れた「サラダ記念日」である。
これが七月六日でなく、近似値であれば、七月四日(米独立記念日)、七月七日(七夕)、八月六日(広島原爆投下)などといった日付であったなら、読み手はそこに別の意味を結びつけてこの歌を解釈してしまうだろう。そういった他に意味をもつ日付をすり抜けて、サラダ記念日という軽さにふさわしい無内容な日付が選ばれている。だが、いっけん無作為にみえるが、実は他に何の象徴的な意味ももたない日付をあえて選ぶという作為がそこには働いている。
「この味がいいね」という言い方は絶妙だ。サラダの味がいい、と言っているのではない。単にサラダが美味しいと言われたのなら、この日は記念日にならなかったにちがいない。そうではなく「この味」、つまり、美味しいというより、ちょっと個性的な味加減なのであり、それは作り手である「この私」を認めてくれたということである。だからこの日が二人の記念日になるのだ。だから、この歌のキモは「この」にある。
この短歌は、無駄に具体的だ。「七月六日」とか「サラダ記念日」とかは、他の語に置き換え可能である。「五月七日はラーメン記念日」でもよかった。俵万智の歌は他にも「東急ハンズ」「缶チューハイ」などの固有名詞が出てくるものがある。こういう固有名が入った歌は、それが存在しなくなった百年後の人にもつたわるのだろうか。百年後の人も共感しうるか。俵はこう言っている。「確かな想いがそこに込められていれば、読者の人にカプセルは開いてもらえると思います。私達も今、古い歌を読んでいて、簾など今はあまり使わないものが出てきても、簾が出てくる歌の想いは共有できるわけですからね。」(『短歌の作り方、教えてください』p16)
これは、時間的な問題としてだけではなく、それを知らない人にも固有名は共感を呼び起こすか、というふうに問題を一般化できる。俵が言っているのは、人は固有名に直接反応するのではなく、固有名によって運ばれる「想い」を共有するということだ。その固有名が指すものを知っていてもいなくても関係ない。「七月六日」とか「サラダ記念日」とか、今の私達にすら何の思い入れもない語だが、そういう思い入れがないものはちょうど過去の「簾」のようなものである。俵は「七月六日」や「サラダ記念日」という「無駄に具体的」なものによって、読み手を具体的な語に反応させると見せかけて、それに実質的に何の意味も持たせないことによって、逆に「想い」を純粋に運ぶことに成功しているのである。「想い」は具体的なものごとにまとわりついた微妙なものだ。だから具体的なものを通してしか語りようがない。